ときどき考える、ときどき日記

アラサー社畜(会社員)がこれからの人生について考えたり、日記を書いています

「かわいくなんて振る舞えない」では済まなくなってきた

職場の女の子で5歳年下の友達がいる。就職や結婚による他県への引っ越しで地元の仲が良かった友達がほとんどいなくなったわたしにとっては、いま現在、彼女がいちばん誘いやすい友達で、よく終業後に食事へ行ったりしている。

昨日もその彼女と、もう一人社内の男性社員との3人で食事に行った。予約せずに入ったフレンチのお店は運悪くカウンター席しか空いていなかったので、3人並んで食事をすることになった。

わたし・友達・男性社員の順に座ったので、3人で会話しているもののところどころ男性社員の話がよく聞こえない。真ん中に座る友達と、わたしより2歳年上の男性社員とは仲が良い。もっとも、友達にはわたしたちと同じ職場に彼氏がいて、男性社員は既婚で子どももいるので、その仲の良さはいつも兄と妹のような雰囲気だ。でも、早口で冗談を言ったり、エクステの長い睫毛で縁取られた目でパチパチと瞬きや上目遣いで目配せをしたり、コロコロと表情が変わったり、言動がいちいちかわいらしい。隣の男性社員も楽しそうだ。そんな2人を見ながら、いつのまにか観客の側になっている自分に気づきながら、割って参加できるほどの話題も話術もないことをわかっていた。

始まりが遅かった食事会も深夜になり、解散してから運転しながらの帰り道、ひとりで反省会をする。どんな外出でも、帰り道の運転中は大抵反省会になってしまう。なんであんなことを言ってしまったんだろう、楽しいことを言えばよかった、気が利かないと思われたかな…主観で考えていてもキリがない。

昨日は「なかなか会話に入れなかったな…」だった。3人くらいで食事をすると、自分以外の2人がよく喋るタイプなら、よほど話したいこと以外は喋らないことはよくあるのだ。でもそれはテーブル席だから会話に入れている気分になれるのであって、カウンターでは2人と一層距離を感じるだけだった。だけど先述のとおり2人の会話に割って入るほどのいろいろもなく、むしろ割り込みたくて必死な印象を見せたら、ただの痛い人に思われるだろう。会話が通じずともニコニコしておこう、疎外感を感じてしまっても、寂しくても。それでは結局楽しめないのだと気付いたのは車の中だった。

そして会話に入れなかったことと同じくらい、友達の振る舞いが印象に残っていた。彼女は親しくても年上の人にとても気を遣う人だ。相手ことを好きか嫌いかに関わらず、冗談を織り交ぜながらいつも会話を楽しく盛り上げている。かわいい。笑顔で「わたしかわいいですから」と言い放って男性社員に「冗談だろ?」と突っ込まれている、そういう愛嬌。わたしにはできない。気の利いた冗談も言えないのに、自分のことを冗談でもかわいいだなんて言えない。そこが「かわいくない」の一因だとは思う。

「かわいい」という評価や「かわいくなりたい」という願望は、自分が「かわいくない」側なのだと自覚したときからついてまわって、ついには「なりたくても不似合い」と諦めたり怖気付いたりしてしまった。最初は容姿に対しての気づきだったのに、いつのまにか振る舞いまで制限してしまう。でも「果たして誰に対しての遠慮なのか」と俯瞰してしまうときはもっと恥ずかしい。

いまのわたしはなかなかかわいくなんて振る舞えずにいるけれど、「かわいくなりたい」気持ちを素直に表現できる人はかわいいと思う。そして他人の卑屈さは、わたしの目にも決して美しく映らない。できるところから、始めなければ。